「意見を言える」「選択肢がある」という格差

学級会が開きたいわけじゃないけど、私はこう思うし、同時に気をつけたいと思う事があったから、こっそり書きます。まあ、大体いつもブログなんてそんな感じで書き始めちゃうんですけどね。


私は「意見を言える」「選択肢がある」ということが、不平等の上に成り立っているものだと思うことがあります。そのときの己の立ち位置にもよるかと思いますが、「意見を言う側」「選択肢がある側」の立場にいるとそれらが「平等である」と勘違いしていることがあるなと。それは、「言える側、ある側」の勘違いであると思っているのです。


それが逆の立場、「意見を言われる側」、「選択肢がない側」だったとき、格差を感じるときが偶にあります。被害妄想と言われればその可能性もありますが、それだけでは片付けられない感情を別にした問題を目の当たりにすると、そのように感じます。


誰かの気持ちが満たされた分だけ、同じ場所に立てなかったり、弱い立場にいる誰かが苦しむ。何かをする度、誰かの何かを傷つけて、踏みつけている。


普段の生活でさえ「搾取の構図の中」に組み込まれていることを、自覚することは大切だと私は思いますし、それに気づけて、その上で選択ができる人でありたいと思います。


しかし、それに気づける人が多いかと言われれば、恐らく少数でしょうし、私自身も気がつかないで、当然の顔をして搾取する側にいる場合もあります。


私たちが無意識に満たされる為の行動や発言に対して、それを、常識的なニュアンスで同意、同調を求めたり、継続的に意見を言えるのは、強者だけだと思っています。


私たちって書いてますが、少なくとも私はそう思っています。


強者というのは正直、皮肉を込めた言い方ですが、そのままの意味もあります。


知り合いにセルフプロデュースのとても上手な方がいます。もちろん本人が日頃からとても気を使って発言したり、行動している努力の賜だと私は思っています。こだわりなり矜持を持って行動したり、発言して、好きなこと、好きな物を消費、昇華する。清く、正しく、美しく、楽しく活動や生活する。それはとても素晴らしいことだと思います。


そういう、行動や生き方、発言はリスペクトされるに値すると思いますし、そういう生き方ができるなら、私自身もしてみたいと羨望する気持ちも沸きます。


ただ、清く正しく、そして自分が気持ち良く生きたり、活動するためにはコスト(時間やお金や人脈等)がかかります。そのコストをペイできるだけの余裕があるかどうかは、価値観の差を生むと思います。余裕がない人(と書くと違う意味になりそうですが、ここで言いたいのはマイノリティ(少数派)という意味合いです)はその選択肢がないことが多いのです。選択肢を持ちたくても持てない。


例えば私が、個人的な趣味、趣向、倫理に照らし合わせて、特定の物やサービス、イベントを拒否、不買しても、それは私がそれを利用しなくてもやっていけるだけの、あらゆる資本(時間、人、お金や権限等)に恵まれていただけのこと。それしかない。


もちろん努力したが故、それらを享受できているというのもあると思います。そこは当然認められたり、評価されても良いところだと思います。


分かりやすくモノで例えるなら、食べ物、例えばラーメン一つ買うのだって、有名なラーメン屋ではなく、カップラーメンしか購入できない。「その選択肢しかない」という人がいるのを知っています。それを知って理解して欲しいと思う事は多々あります。けど強制したり、押しつけたりするものでもないとも思っています。感情的に割り切るのは難しい部分でもありますけど。


知って欲しいと思う理由は、多数派の同意・同調による、ときに無責任な意志の強さによる圧力や、少数派が搾取される構造、ないし格差をできるだけ解消したいから。


自由に生きる、活動出来るコストを負担せず、あるいは「負担する必要や義務がない」ので、自由に活動出来るリベラリスト(自由主義者)が、少数派に乗っかり、パターナリズム(強い立場にある者が、弱い立場にある者の「利益のためだ」として、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう)が保たれることで、その特権を多数派かのごとく振りかざされると、しんどい。自分が少数派のときは特に。


多数派の生きやすさ、価値観の保護のためにコストを背負う構造が、果たして少数派にとって価値のあるものなのか疑問に思うことですし、ここで不条理な構造が発生していることに少数派は気がついても、多数派は気がつかないことの方が多いと思っています。


既に不条理な構造で守られた中で、少数派の良心を盾に、自分たちは皆、同じ立場である前提で主張や意見を述べる。それは誠実な態度であるかのように正義の仮面を被っていることも多い。もちろん、悪意なんてない。よほど性格の悪い人でなければ、殆どの場合、善意だ。それが相手を苦しめたり、傷つけたり、搾取しているのに、なぜそれが善意になるのか。相手(少数派)にどれだけの選択肢があるのか、知らないから。そして自分が守られている立場であることに気がついていないことが大きい。


それは多数派だけの問題じゃなく、様々な面倒事(話し合いとか)を放棄して、その搾取される構造を温存する少数派もいるのも事実です。(温存させるしか選択肢がない場合ももちろんありますが)逆に、多数派の中にも、自分たちが誰かの搾取の上に立っていて、楽できたり、何かしらのうまみを甘受できていると分かっている人もいます。


ただ、狭い環境(家族、会社、友人関係等)の中で、「意見が言えること」「選択肢があること」が当たり前にあって、その上でそれらがない相手に対等さ、正当さや誠実さであるかのように踏み絵を迫るのは、私は好きでないですし、個人的に不健全だなとも思います。


人対人である以上、0対10の正しさなんてないと思っているので。


だからこそ、自分は搾取される側の構造をどうにか変えていきたいとも思うし、自分が多数派だったときは、相手の選択肢がどれだけあるのか、どうしてその意見、選択だったのか考えられるようになりたいと思うのです。


でもどうしても、私は私の安楽と引き替えに、誰かを搾取したり、何かを踏みにじるようになるならば、密かに自分の選択肢から人と関わっていくことを優先的に外していくんじゃないかなと思います。そうでもしないと自分の面倒をみきれないと分かったので。


とまあ、偉そうに書いていますが人間関係はいつだってお互いの努力と思いやりの上に成り立っているので、それをサボれば当然、疎遠になることはあるわけで。誰かの苦しみの上に楽できたりしていたり、成り立っていることを、甘受するような感覚だけは、なるたけ持たない努力や選択をしていきたいなと思ったのです。


あとは感情のコントロールをもっとできるようになりたいですね。

今年もあともう少しなので、来年の目標かな。

らいらいらいだー

創作好きマルチプレイヤー

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